19世紀のヨーロッパを魅了した、「Hirado(平戸焼)」の手技がいま蘇る

平戸焼からみかわち焼へ


みかわち焼の歴史
三川内焼の歴史

三川内焼の歴史には、3つのキーワードがあります。
一つは、「朝鮮陶工」です。16世紀末に豊臣秀吉は朝鮮に出兵します。「文禄・慶長の役」です。 このとき出兵した大名たちは陶工たちを連れ帰り、九州各地にはさまざまな窯場が誕生しました。 平戸藩でも、領主・松浦鎮信は帰国の際に巨関を連れ帰り、中野(現在の長崎県平戸市)に窯を築かせました。

同じ頃、佐賀県北部では唐津焼が誕生し大きな発展をとげます。 しかしそれらを統括していた領主の波多氏が、ときの権力者である豊臣秀吉の不興を買い、領地を取り上げられます。 唐津焼の陶工は九州の各地に移っていきますが、その一つが三川内でした。

二つめ言葉は、「御用窯」です。御用窯とは、藩が庇護し、朝廷や諸大名向けの器を焼いた窯のことをいいます。 日本における磁器焼成は、三川内の隣りの有田(佐賀県)で1610年頃に始まりました。 当時の磁器焼成は最先端産業でしたから、その技術はもちろん原料も厳しく保護されていました。

三川内では主に陶器を焼いていましたが、巨関の子である今村三之丞が、寛永10年(1633)に針尾島(佐世保市)で陶石を発見し、 さらには今村弥次兵衛が、寛文2年(1662)に発見した天草陶石と網代陶土(三ッ岳石)との調合に成功して原料が揃い、 ようやく磁器焼成が本格化しました。平戸藩は、寛永15年(1638)に三之丞を窯揚の責任者兼役人である、皿山棟梁代官に任命します。

さらに慶安3年(1650)には、中野の陶工たちが三川内地区に移され御用窯の体制が完成します。 現在でも窯跡が残る、三川内地区の東窯と西窯がその御用窯でした。

三つめに「輸出」です。17世紀(1600年代)の後半に三川内は海外への輸出品を盛んに焼きました。 しかし間もなく17世紀末に中国の景徳鎮窯の攻勢により、ヨーロッパの市場が奪われます。 日本の磁器の窯場は、国内向けの安価な日用品をつくる必要に迫られていきました。 三川内焼の民窯は浮き沈みをくり返しますが、御用窯はこうした荒波に巻き込まれることなく、 技術の粋を極めた細工ものや茶近具などがつくられ続けました。

三川内焼が再び本格的に輸出されるのは、幕末(1800年代半ば)です。 薄手のコーヒー碗をはじめとする食器はヨーロッパで高い評価を得て、 昭和30年代まで三川内は輸出用の洋食器の産地でもありました。

国内においては、大正・昭和時代に、染付で唐子が描かれた和食器が口本の食卓に広く普及し、多くの人たちに知られていきました。


染付雀竹文大皿 江戸時代中期

白磁毛彫虎置物 江戸時代後期

網代陶石(あじろとうせき)。針尾島(佐世保市)でこの陶石が発見され、三川内焼の本格的な磁器焼成が始まりました。

1600年代半ばから昭和時代まで使われていた、三川内東窯の跡。登窯(のぼりがま)で、その長さは100mに及びます。